クラウディオ・モンテヴェルディ

Claudio Monteverdi (1567 - 1643)

【クレモナ時代】

 1567年5月、ヴァイオリンの街として有名なクレモナにて、医者である父バルダッサーレ・モンテヴェルディの長男として生まれました。

 モンテヴェルディが最初に世に出版した曲集は、3声の聖カンティウンクラ集第1巻(1582年)。モンテヴェルディ若干15歳の出版で、少年時代からの非凡さが伺えます。その表紙には、クレモナのドゥオモの礼拝堂楽長マルカントニオ・インジェニェーリMarcantonio Ingegneriの弟子、と書かれています。

 この記載は1590年のマドリガーレ集第2巻(1590年)まであり、1592年出版の第3巻以降は記載がなくなります。同時にマントヴァ・ゴンザーガ家の給与支払明細には1592年に初めてモンテヴェルディの名が登場。また1641年出版の「宗教的、倫理的な森」の献呈文で(献呈は神聖ローマ皇帝皇后Eleonora Gonzaga)、22年前、と書いているほか、1608年末の父との手紙のやり取りで「19年の務め」について話していたり、1615年の手紙では「21年間の務め」(モンテヴェルディは1612年の夏に解雇される)と話していたりします。数字が若干合わないようですが、恐らくは1590年(遅くとも91年)にはマントヴァに仕えていたようです。

​【マントヴァへ】

 さて、1590年、まだヴェルトが聖バルバラ教会の楽長をしていたマントヴァに、ヴィオール奏者として雇われたモンテヴェルディは、前述の通り1592年にマントヴァ公ヴィンチェンツォに献呈する形で5声マドリガーレ集第3巻を出版。94年には歌手としての契約も記録が残っているようですし、第3巻を出版したことで作曲家としても評価されていたようです。

 大先輩のヴェルトが聖バルバラ教会の楽長から降りるのが92年でしたから、それまでの1、2年間、彼に教わったのか、多数出版されている5声マドリガーレ集を読み歌い学んだのか、第3巻のマドリガーレにはヴェルトの影響(または同時代の先駆的な作曲家の影響)を感じる部分が少なからずあります。それ以前の作品も含め、優雅で聴くにも歌うにも心地よい旋律はモンテヴェルディの特徴ではありますが、まだまだ若手の25歳にして、円熟した対位法を用いた巨匠のような落ち着きと、未だ若々しい躍動の同居したこの第3巻の作品群は、第二作法とその議論で持ち上げられる4・5巻や、通奏低音入りマドリガーレから少声部や大編成、果てはマドリガーレそのものが劇音楽となっていく5巻以降の作品に勝るとも劣らない魅力を持っています。

 1595年には、かつてヴェルトがグリエルモに同行したように、ハンガリーへ向かうヴィンチェンツォにモンテヴェルディが同行します。こうして重宝されていると思いきや、その翌年ヴェルトが死ぬと、その宮廷楽長の地位はモンテヴェルディではなく、同郷クレモナ出身のパッラヴィチーノの手に。モンテヴェルディは悔しかったとは思いますが、まだ30歳にも満たないモンテヴェルディからすると、もう10年以上マントヴァに仕えるパッラヴィチーノは40代中盤。ヴィンチェンツォには気に入られつつも、まだ早いと思われてしまったのかもしれません。というのも1599年5月に結婚したモンテヴェルディ(お相手は歌手のクラウディア・カッターネオ)は、その翌月には再度ヴィンチェンツォのお供で各国を周り、帰ってこられたのは10月の事。冷遇されていたわけでもなさそうです。

 

 そして翌年の1600年。日本では関ヶ原の戦いの年として誰もが覚えるこの年は、音楽史的にも色々重要な年でもあります。重要事の一つは、「現存する最古のオペラ」と言われるペーリとカッチーニによる「エウリディーチェ」の上演のあった年で、その7年後にオペラ「オルフェオ」を書くモンテヴェルディと関わりがないとも言えない(モンテヴェルディ自身もこの公演を見たであろう、という話もあります)です。もう一つの重要事はモンテヴェルディが渦中の人物。

 対位法や音楽理論の教科書で名高いツァルリーノの弟子、ジョヴァンニ・マリア・アルトゥージはこの年、対話形式で成り立つある本を出版します。題名は「アルトゥージ、または現代の音楽の不完全さについて - L’Artusi overo Delle imperfettioni della moderna musica -」。この中でアルトゥージは、名前こそ伏せたものの、モンテヴェルディの未だ未出版のマドリガーレの譜例を音符のみ出して批判しました。批判の内容は、簡潔に言うと、楽曲に不協和の使われ方が、それまでの先人たちの理論を逸脱している、という内容でした。モンテヴェルディは5年後の1605年、5声マドリガーレ集第5巻の巻末に、短めの文章を載せています。せっかくなので拙訳ですが載せます。

 

 その2年後1607年には、弟ジュリオ・チェーザレ・モンテヴェルディが兄の「3声の音楽の諧謔」の巻末に「マドリガーレ集第5巻に印刷された手紙の注釈」として長めの文章を載せています。これも簡潔に言えば「言葉はアルモニア(ハーモニー、調和)の主人であって、召使いではない」という事にに落ち着くと思います。アルトゥージが手厳しく追及した準備なしの不協和なども、その曲がつけられた詩のもつ情感を表現する手段として有効であり、そもそもそれは手段であって、その手段の為に詩の情感の表出を損なう事があるべきではない、という事で、しかもアルトゥージはその譜例を音符のみで、歌詞を載せずに引用している為に、これでは兄がどういった意図でそのように作曲したかが伝わらない、と言っています。

 アルトゥージは、歌詞の内容など問答無用、こんなものはおかしい、と歌詞を抜いたのか、「現代の音楽家」からの批判を避けてそれを抜いたのかは不明ですが、この論争はこの両者のみならず、この同時代の音楽家の間でも話題となり、バンキエーリやアガッツァーリ、はじめ、様々な作曲家が自身の著作の中でこの件にコメントしていて、この時代の音楽家の中での一大関心事であった事がわかります。

 

 1607年には、マドリガーレとはまた別に、オペラ「オルフェオ」が作曲、上演(2月24日)されています。この公演は大成功で、翌1608年にはオペラ「アリアンナ」が作曲、フランチェスコ・ゴンザーガの婚礼のお祝いの為に上演(5月28日)されていますが、この間にモンテヴェルディは妻クラウディア(1607年11月10日没)と、アリアンナ役で稽古中だった、ローマの女性カテリーナ・マルティネッリ(1608年3月9日没)の二人を相次いで亡くしています。

 マルティネッリは当時大人気の歌手で、モンテヴェルディ夫妻の家に居候していました。この時期のモンテヴェルディは本当に「死ぬほどに」忙しかったようで(ゴンザーガ家の祝賀ムードは相当だったようで、この為に「情け知らずな女達のバッロ Il ballo delle ingrate(のちに8巻に収録)」も作曲、上演されています。)、共に暮らした家族と友人がアリアンナ上演直前の彼女の死はマントヴァ中で悼まれ、ヴィンチェンツォはその後モンテヴェルディに、彼女の為に書かれた6行6連詩『愛する女の墓に流す恋人の涙(Lagrime d'Amante al Sepolcro dell'Amata)』にマドリガーレを書かせています。

 心身ともに疲れ果てたモンテヴェルディは同じく1608年、この激務の後体調を崩し、クレモナの父の元へ子ども二人と帰ります。見兼ねた父はヴィンチェンツォ公に2度手紙を書き、仕事を少し軽くしてもらう事、支払いをきちんとしてもらう事などをお願いし、さもなくば公爵夫人に、息子がマントヴァ宮廷を去る許可をもらえるよう嘆願する、とまで言っています。結果翌年には支払いはされますが、仕事内容は変わらなかったようです。

 

1610年には、ゴンベールのモテット In illo tempore を模倣した6声のミサ曲と、聖母マリアの夕べの祈り Vespro della Beata Vergine を作曲、時のローマ教皇パオロ5世に献呈します。このモンテヴェルディ自身が新たな奉仕先を探していたかはわからず、息子の神学校の無料枠を狙っていたようですがどちらにせよローマでの収穫はほぼなく、フランチェスカ・カッチーニなどローマの音楽家たちとの交流があった程度のようです。

 

1612年2月18日、ヴィンチェンツォ公が亡くなると、息子フランチェスコが次期マントヴァ公となります。この代替わりで、宮廷内の経済的逼迫もあり多数の人員を解雇していて、その中にモンテヴェルディ兄弟も含まれました(7月29日)。ところが解雇して間もない同年12月22日、天然痘でフランチェスコは亡くなり、後継の息子もその少し前に亡くなっていた為、フェルディナンド・ゴンザーガ枢機卿がマントヴァに帰り摂政となります。

 

その後モンテヴェルディはミラノと接触したりしていますが、約一年後にヴェネツィアの聖マルコ教会から、G. C. マルティネンゴの死後空席の楽長の席を競うよう声がかかります。1613年8月、モンテヴェルディはヴェネツィアへ行き試験を受け、改めて同年10月に、帰郷していたクレモナから息子と共にヴェネツィア入りします。これ以来モンテヴェルディは亡くなるまで生涯ヴェネツィアに住みます。聖マルコ教会の楽長、という役職ではありますが、聖マルコ教会はドゥカーレ宮殿とつながっていて、またドゥオモではないドージェの礼拝堂であり、その役職は教会内にとどまらなかったようです。

1614年に出版されたマドリガーレ集6巻には誇らしげにヴェネツィアの聖マルコの礼拝堂楽長、と書いてあります。とはいえここに収められた曲はマントヴァ時代に書き溜めたものであり、アリアンナのLamento部分の5声マドリガーレバージョンに始まり、前述のアリアンナを歌うはずだった歌手の死に際して書かれた6連詩や、マリーノの詩に書かれた劇的なコンチェルタート様式のマドリガーレなどが収められています。この6巻はイレギュラー的要素として、献呈先がありません。苦しんだマントヴァ時代から抜け出し、今や私はヴェネツィアの聖マルコの楽長だ!と、自分自身にも外にも宣言したかったのではないか、などと思ってしまいます。

とはいえ、マントヴァとの縁は切れたわけではありません。1616年、フェルディナンド・ゴンザーガは緋の衣を捨て正式にマントヴァ公となります。そのお祝いとしてモンテヴェルディはバッロ、ティルシとクローリ Tirsi e Clori(数年後7巻に収録)を書いています。その後もマントヴァ公の結婚などもあり、エッフレムやロッシとコラボしたLa Maddalenaの音楽や、オペラ「アンドロメダ」、「アポッロの愛」のバレット(共に消失)など、またマドリガーレ集第7巻「コンチェルト」は公爵夫人カテリーナ・デ・メディチに献呈されるなど、何かとマントヴァには繋がりを持っています。

この1619年に出版された第7巻は前述の通り「コンチェルト」と題されていて、もはやこれまで基本だった多声部(と通奏低音)のみのマドリガーレはほとんどなく、ソロ・アリア、カンツォネッタ、デュエットやテルツェット、また前述のバッロなどが収録されており、大変なボリュームになっています。

これだけ濃密にマントヴァと関わっていたモンテヴェルディがいて、その上1619年には、モンテヴェルディと入れ替わりでマントヴァ宮廷に入りその後マントヴァの楽長となっていたサンティ・オルランディが亡くなった事で、いよいよヴェネツィアの検察官はモンテヴェルディがマントヴァに戻ろうとしているのではないかと疑います(実際誘いはありました)が、アレッサンドロ・ストリッジョ(息子)との20年3月13日の手紙にも残る通り、ヴェネツィアでは心から満足していて、マントヴァに戻る気はさらさらなかったようです、それどころか手紙にはマントヴァに対して若干の恨み節のようなものさえ書かれています。

この後もヴェネツィアでの活動は多岐に渡ります。まずなにより教会での音楽家養成や作曲が忙しかったはずですが、世俗曲の面でもたくさん書いていて、特筆すべき点の一つは1624年、謝肉祭時のプライベートなパーティーで「タンクレディとクロリンダの戦い Combattimento di Tancredi e Clorinda(その後8巻に収録)」が上演されています。マントヴァ以外にも国外の宮廷などからの依頼もあり、また息子の関係でボローニャに行った事でフィロムシのアッカデミアの会員になったりしつつ、その激務の中で度々その作品の遅れに対し謝罪の手紙を送ったりもしています。とにかくこの頃の様々な依頼作品は消失しているものが多いです。

1627年にヴィンチェンツォ2世・ゴンザーガが亡くなった事で直系男子が断絶した事で、マントヴァでは継承戦争が勃発、1630年にはマントヴァがランツィケネッキにより略奪され、ペストが蔓延しました。それがヴェネツィアに入り込みヴェネツィアでも大流行、人口の40%に当たる約15万人が死んだと言われています。モンテヴェルディはもし生き残れたら巡礼に出る、と誓い、31年の終息を祝うミサではモンテヴェルディの曲が演奏されました。実際に巡礼に行ったのかは、わかっていません。

その後もヴェネツィア内外への作品を作曲し続けたモンテヴェルディは、実に約20年ぶりにマドリガーレ集「戦争と愛のマドリガーレ集第8巻」を出版します。その名の通り、愛の歌と戦いの歌に分けて収録され、2声と通奏低音のものから6声、8声にヴァイオリンが入るもの、バッロ、ニンファの嘆き、果ては前述のタンクレディとクロリンダまで、7巻を超える大ボリュームの曲集、マドリガーレ集と名のつく曲集は生前はこれが最後になりますが、まさに世俗曲の集大成にふさわしい曲集です。

逆に宗教曲の集大成としては41年に「宗教的・倫理的な森」という曲集が出版されます。8巻が神聖ローマ皇帝フェルディナンド3世に献呈されたのに対し、こちらはその妻エレオノーラ・ゴンザーガに献呈されています。ペトラルカのソネットなどの曲も数曲ありますが、こちらにはミサやヴェスプロなど、大小の宗教曲がてんこ盛りです。

この第8巻が出版される直前、1637年に、ヴェネツィアで史上初めての一般民衆向けのオペラ劇場が開かれます。これ以降劇場は増えていきますが、1640年にはそのうちの一つ聖モイゼ劇場でアリアンナが再上演され、またモンテヴェルディ自身は別の聖ジョヴァンニ&パオロ劇場に雇われ、完全にではなくとも現存している「ウリッセの帰還」、「ポッペーアの戴冠」を含むいくつかの作品を書いています。

1643年春、モンテヴェルディは自身の年金の事で、ヴェネツィアを離れ、マントヴァや他のロンバルディア地方に半年ほど向かいます。そしてヴェネツィアに帰って間も無く病にかかり、11月29日、息を引き取ります。遺体は今も、画家のティツィアーノも眠る、ヴェネツィアのフラーリ教会に眠っています。

クラウディオ・モンテヴェルディ、この偉大な作曲家の80年近い人生を振り返るのに一番相応しいのは、宗教曲もオペラも重要ではあれど、やはりマドリガーレです。一人の作曲家がその人生において、ここまで同じ「マドリガーレ」を変化させていったのは驚嘆に値すると思いますし、ヴェルトもそうであるように誰しもがそうであろうとは思いますが、前時代と後世の橋渡しとしてこれほど重要な作曲家は他の時代にもなかなかいないように思います。

今回のプログラムでは、1巻と6巻を除く全ての曲集から選曲しました。後期の大きな編成のものは私達だけでは演奏できませんが、今回並べたこの曲だけでも多様さがわかると思います。今回の「目玉」として選曲したのは、第二作法の事もあって演奏されることの多い4、5巻からでも、通奏低音つきで劇的で素晴らしい後期のマドリガーレでもなく、それらに比べ演奏される事の比較的少ない第3巻から「行ってしまえ、酷い人よ Vattene pur crudel」です。

タッソの解放されたエルサレムからの抜粋、第16歌の59, 60, 63連を歌ったこの曲は、魔法をかけ自分の園へ連れてきたリナルド(どんな魅力的な所かは、ヴェルトの「麗しい小鳥たちは緑の合間で Vezzosi augelli infra le verdi fronde」でその一端が歌われています)が、二人の戦友に正気に戻され去っていった後、一人残されたアルミーダの情景とセリフです。激情のままに叫ぶ第1部、その叫びは2部の途中まで続き、その想いの強さのあまり、言葉を止め気絶し倒れます。(本来の詩では61,62連と語りが続き、)第3部で気が付いたアルミーダは海岸にただ一人。行ってしまったと嘆きつつ、それでもリナルドを愛す自分に目を向け、泣き崩れます。まだ25歳程度のモンテヴェルディが書いたこの曲。まだ第2作法を明言する前の若いながら円熟した対位法、ポリフォニーの妙と、その中に効果的に描かれる激情と消沈を感じて頂けたら幸いです。

勤勉なる読者諸君へ

かのアルトゥージが、この中の幾つかの細かい要素に異議を申し立てた事についての返答なしにこれらのマドリガーレを出版する事に驚かないで頂きたい、というのも私はマントヴァの殿下に仕えているので、時には私に時間が必要なその時間を私がどうこうする事ができないのです。

とは言え、私がこの曲達を適当に書いているのではない事をわかって頂く為返答を書きました、そしてそれは書き改められ次第、「第二の作法、または現代の音楽の完全性 - SECONDA PRATICA, overo PERFETTIONE DELLA MODERNA MUSICA」という名を表紙に冠し、皆様の目に届く事になるでしょう。恐らくは、ゼルリーノから教えられるもの以外の作法が存在するとは信じない人々は驚く事でしょう、しかし協和音と不協和音の周りに、また一つ他の異なる確かな考察があると言う事を確信する事と思います、それは理性と感覚の落ち着きをもって現代の作曲法を擁護するものであり、この「第二の作法」という言葉が時に他の者に占有されないように、また才覚ある者達がアルモニアに関する他の第二の事ごとについて塾考でき、その「現代の作曲家」が真実の根拠のもとに創作していると信じてもらえるように、これをあなた方に言いたかったのです。ごきげんよう。