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執筆者の写真dolceamarotokyo

公演直前!第6回公演プログラム公開&第6回公演プログラムの作曲家②



こんばんは、DolceAmaroです。


ここに来て怒涛のブログ更新。

今日は、当日のプログラムを事前に紹介しちゃいます。


こちらです。



前回もプログラム公開の時に書いた気がしますが、DolceAmaroの公演ではこれまで曲数がとてもとても多かっ他のです。それをここ数回、少しずつ減らしています。前回は15曲、そして今回は16曲です。それでも十分聴きごたえのあるプログラムかと思います。



プログラムの大まかな流れとしては、


  • 先ず今回取り上げた作曲家達の先輩格、という事で、バーリ出身のステーファノ・フェリス(Stefano Felis)のマドリガーレを1曲。

  • そこから、南イタリア生まれではないものの、ここを紹介しないわけにはいかないフェッラーラの作曲家、ルッツァスコ・ルッツァスキ(Luzzasco Luzzaschi)とアルフォンソ・フォンタネッリ(Alfonso Fontanelli)と、ジェズアルドを。

  • その後は、主にナポリ、バーリに、またジェズアルドに関連する様々な作曲家達と、ジェズアルドの作品。


という流れです。


どうぞ、お楽しみに!!


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そして、今日はこの中からまた1人、作曲家の紹介をしたいと思います。


今日ご紹介する作曲家は、Scipione Dentice(シピオーネ・デンティチェ)です。


苗字、家名ですが、時々デンティーチェと書かれているものを見ますが、「デ」にアクセントです。denticeとは鯛(の種類の魚)の事らしく、紋章にも魚が描かれています(厳密にはDenticeの家も様々に分かれていて、今回のScipioneの紋章がこれと同一かはわかりません)。


名前は、シピオーネ。この名前はこの時代のナポリ周辺の作曲家にも多いです(Stella, Lacorcia, etc)。


日本人的には少し不思議な響きのこのシピオーネという名ですが、スキーピオと言えば少しはなじみもあるのではないでしょうか。共和制時代の古代ローマの英雄、カルタゴのハンニバルと戦ったスキーピオ・アフリカヌスの名です。スキーピオはナポリ近郊で没したという事もあり、この名が多いのかも?しれません。

(←これは古代ローマのスキピオです。)


さて、デンティチェに話を戻します。


シピオーネ・デンティチェ(1560 - 1633)は、ナポリ生まれの貴族です。デンティチェと言えば恐らくこの人よりも、ファブリツィオ・デンティチェの方が少しだけ有名かな?と思います。その親族ではあると思われますが、明確な資料はない、という事のようです。


優れたチェンバロ奏者でもあったようで、またジェズアルドの音楽グループに参加していたようです。自身の曲集も多く出版していますし、98年出版の5声マドリガーレ集第3巻は、ジェズアルドの妻、エレオノーラ・デステに献呈しています。



いくつもの曲集を出版していますが、マドリガーレ集は5巻まで出版(1607年)した所で突然ハタと出版が止まり、その後宗教家になっているのも面白いところです。


そしてその間もちょこちょこ、他の作曲家の曲集に1曲だけ間借りしてマドリガーレを書いていたりもします。


亡くなる少し前には、5声の宗教的マドリガーレ集を出版、そして没後には参加していた修道士会から、4声の宗教的マドリガーレ集が出版されています。



実はDolceAmaroでは、(リハをしてからボツになった曲も含めれば)このデンティチェの曲を何度か演奏しています。今回でおそらく3、4曲目でしょうか。



今回のデンティチェの曲は、マドリガーレ集第5巻から、


Io mi sento morir, quando non miro


です。

前回のディンディア公演でも同じ詩がありましたね、グァリーニ(Giovanni Battista Guarini)の詩です。マドリガーレは、こんなふうに同じ詩に沢山の作曲家が曲を書いていたりします。


曲調は、単独パートで見るとそこまで不思議な動きをするわけではないのですが、合わせてみるとやはりジェズアルドの近くにいた作曲家らしく、一筋縄ではいかない曲です。どこへ向かうのか一瞬「?」が浮かんだ頃に、音楽の解決先が見えてくる、と言ったような感じがします。


デンティチェの作品も、お楽しみに。







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