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執筆者の写真dolceamarotokyo

ディンディアは割と嫌われ者だった?

またまたご無沙汰のブログとなってしまいました。

色々忙しく目が回る毎日。

なのに猫を保護してしまい、てんてこ舞いです。


迷い猫かな?とも思い保護したのですが、探されている様子は今のところ無いようです。


今日病院で診てもらい、目にも病気?怪我?があったり、手術痕はなかったりで、やはり野良さんな可能性は高いようです。そして小さいのですが成猫だそうです。


我が家で名前を付ける事になるかも知れません。


と、ディンディアとなんの関係もない事を書いてしまいましたが。。



さて、今回の表題。



ディンディアは嫌われ者だった?です。


というのも、1623年にディンディアがトリノを去った原因は、宮廷人の悪意ある噂話だ、と書いてある事が多く、そこに疑問を持って少し調べ物をしていたのです。

フィリッポ・アルビーニ (158? - c.1626)という同じくサヴォイア家に仕えていた作曲家の曲集にその事が書かれている、という事で読んでみたのですが、特に明確にディンディアに対し何があったかは書かれていませんでした。ディンディアについて書いてあるのはこの辺り。


L’anno passato, essendo assente per suoi affari, il Cavaglier Don Sigismondo d'India, capo

della Musica di quest'altezza Serenissima mi fu comandato da chi comandare mi poteva,

ch'io dovessi metter in musica le sequenziali poesie, scelte fra molte (come ogni anno qui

far si suole) che per occasione di un' sestino si dovevano recitare nella notte del felicissimo

giorno di Natale di Sua Altezza Serenissima.

Non potei fare altrimenti, che obedire in quel poco tempo, che mi venne l'ordine.


昨年、楽長であるディンディアの”彼の用事”での不在の為、(ここでは毎年行うのが常であ

るように)殿下の最も幸福なる誕生日の夜に際し、上演される一連の詩(セスティーノ)を、

多くの中から選んで音楽にするよう、私に命令することができる者が私に命じたのです。

その私に下った命令に、あの短期間では私は従う以外になかったのです。


私用で不在のディンディアに代わってアルビーニが宮廷の為の音楽を書いた、という事で、これだけだと何があったかも良くわかりません。しかもアルビーニはこの後の文章でディンディアの事を若干ヨイショしていますし、ある意味この文章はアルビーニの世間やディンディアに対する弁明的な要素もあり、アルビーニ自身がディンディアに何か悪さしたような雰囲気は持てなかったのです。その上、トリノを去って1年後には、今度はローマで、アルビーニとディンディアは同僚になっています。


それで調べていくと、ルドヴィコ・サン・マルティーノ・ダッリェ(1578-1646)のモデナのアルフォンソ3世への手紙に書かれている事がわかりました。ディンディアがトリノを去って数ヶ月後の手紙に、


…per sottrarsi dalla malvagità d'alcuni i quali fecero di lui pessimi rapporti all'Altezza sua,

presso cui teneva loco di capomusico della camera…


…彼が室内楽長をしていた殿下の元へ非常に悪い報告をした、幾人かの悪意から逃れる為…



ディンディアはトリノを去った、と書いていました。

それに付随して、詩人のフルヴィオ・テスティは、ディンディアの事を


brutto di volto e così male in arnese


顔がブサイクで、身なりがとても悪い


と書いていたり、作曲家アントニオ・ゴレッティは1627年のパルマでの祝典の競合に際し、


…è valente, né si può dire in contrario, ma è però anco vero che tiene certi pensieri in capo

di voler essere tenuto il primo uomo del mondo, e che niuno sappi se non lui; …


〜彼は才能があり、そうではないとは言えません。しかし、彼の頭の中には、世界で最初の

男でありたい、自分以外には誰もわかっていない、という考えがあることも事実です。〜



とエンツォ・ベンティヴォッリォへの8月13日の手紙の中で評していたりします。


また事実、同時期のディンディア自身がベンティヴォッリォに書いた手紙には、マッツォッキの事を必要以上に攻撃的にこけおろしていたりと、ディンディアの自信過剰で不遜な態度が透けて見えます。


因みに余談ですが、このゴレッティなる人物はモンテヴェルディにとても傾倒していた音楽家でした。アルトゥージが例の本を書くきっかけ、とも言える、モンテヴェルディのマドリガーレをアルトゥージが聴いた音楽会は、このゴレッティ宅で催されたものと言われています。アルトゥージ自身もゴレッティの事を

"nobile ferrarese, giovane virtuoso e amatore de' musici quanto ogn'altro che per ancora habbi conosciuto"

「フェラーラの貴族で、若いヴィルトゥオーゾであり、私が出会った誰よりも音楽を愛している」

と書いていて、アルトゥージの本に登場するモンテヴェルディの音楽を支持する「オットゥーゾ」はこのゴレッティではないかとも言われています。


1627年のパルマ公オドアルド・ファルネーゼとマルゲリータ・デ・メディチの婚礼用音楽の委嘱の競合は、ディンディアの他にモンテヴェルディも参加しており、この仕事は最終的にはモンテヴェルディが委嘱を受けています(ゴレッティも公演の手伝いに参加しています)

自分こそNo.1、と思っているディンディアにとっては、第1線で輝き続けるモンテヴェルディをライバル視していたでしょうし、悔しかったに違いありません。



そんなこんなで、なんとなく想像とは違うディンディア像が浮かび上がってきました。まぁ嫌われ者、というのも言い過ぎで、実際何があったのかはわからないのですが、少なからず疎ましく思われても居たらしい、という事でした。


ただそれでもやはり、と思うのは、称賛する声もやはり多数あった、という事で、当時からやはりディンディアの音楽というのは評価されていたようです。



今回はここまで。7月5日まで、いよいよもうすぐ1ヶ月前です。



皆様是非是非、御予約を!!





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