さて、前回に続いて、ディンディアの紹介です。
1611年の4月1日より、年棒200ドゥカトーネ銀貨で楽長として、トリノはサヴォイア家、カルロ・エマヌエーレ1世の元へ雇われたディンディアですが、実はこの少し後から、トリノは戦争へと突入し、その為宮廷では様々な公演は1618年頃まで中断されてしまいます。
第1次モンフェッラート戦争、というものですが、モンフェッラートと言えば、ゴンザーガ家です。音楽好きのグリエルモ公の頃に公国となり(そのちょっと前から侯爵でしたが)、それ以降マントヴァ公はモンフェッラート公を兼ねていました。
モンテヴェルディがマントヴァでの職を失った辺りのマントヴァで何があったかを思い返すと、ちょうど時期が重なっているのですが、ヴィンチェンツォが1612年に死に、その長子フランチェスコが公位を継ぐ(このタイミングでモンテヴェルディはクビになります)のですが、そのフランチェスコに、1608年に嫁いでいたのが、サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世の娘マルゲリータなわけです。
フランチェスコはなんとその年の間に、世継ぎを残さず死んでしまいます。その為マントヴァ・モンフェッラート公はフランチェスコの弟フェルディナンドが継ぐわけですが、この時にサヴォイア公がモンフェッラートの相続権を主張、サヴォイア側からしてみれば、その為に嫁がせたようなものだったのでしょう。1613年の4月から戦争に入りました。
ちょっと前にはマントヴァにいたわけですし、そこで得た音楽的経験は恐らくディンディアの中に強く残ったと思いますが(ソロ曲だけでなく、5声マドリガーレを見ても、ディンディアは明らかにモンテヴェルディの影響を受けています)、新しく勤めた先の国がかつて自分が居た国と戦争、それもマントヴァ側はとばっちりを受けた側(仕掛けたのはサヴォイア家です)、どういう心境だったのでしょう。
この戦争は他の国を巻き込みつつ1617年まで続き、結局マントヴァ側に公国は残ります。トリノの宮廷は翌18年頃からようやく活気を取り戻す、ということになるわけです。
とはいえ、ディンディアの出版物を見てみると、この戦争の間にかなり多く出しています。
5声マドリガーレ集については、3巻が1615年、4巻1616年、5巻も1616年で献呈文は6月28日の日付。
ムジケは、2声(実質これが2巻ですし、3巻の出版者の言葉を見ても2巻で間違い無いんですが、実はこの巻には何巻目、との記載はありません)が1615年、8月20日献呈、そして3巻が戦争が明けた1618年、1月3日献呈。
ディンディア的に言えば、他にやるべき仕事がなかったのかもしれませんし、出版が重なってるからと言ってその頃に全て書かれたというわけでも必ずしもないのもそうですが、とにかくこの数年の間の出版はとても多いです。
ちなみにこの時期(1608-1615)、詩人ジャンバッティスタ・マリーノ(1569 – 1625)もトリノ宮廷に支えており、この時にマリーノは爵位を授与され(1609)、騎士となっています。
このトリノ時代のマリーノのエピソードも色々ありそうですが、これもまたそのうちに。ちなみに今回の公演でも、マリーノの詩はいくつか歌います。お楽しみに!
またこの頃ディンディアは、オペラ、と言って良いのか、ある劇作品を書いていたのではないか、と言われています。ルドヴィコ・サン・マルティーノ・ダッリェ(Ludovico San Martino d’Agliè、ルドヴィコが名前、それ以降は家名)という詩人のLa Zalizuraというものなのですが、これは残念ながら断片しか残されていません。このルドヴィコ氏とはその他にも劇作品を書いたようで、その一部は『4声の音楽と舞踏集(1621)』の中に収められています。ただこれが書かれたのが、1618年頃のトリノ、とされるものと、いやいや、書かれたのはもっと前で、1612年ごろだ、という研究もあるようで、よくわかっていません。
少ないながら残された記録からすると、ディンディアはオペラと言える劇作品を少なくない数書いていた様なのですが、残念ながら現代まで残されたものはありません。
とはいえ、マドリガーレ7巻(1624)の献呈文の中でディンディアは
…altre opere recitative, balletti e inventioni che già tutte insieme furono con mirabile e sontuoso apparato rappresentate in Torino…
…驚嘆すべき豪華な舞台装置とともにトリノで上演された、他のレチタティーヴォ、バッレット、インヴェンション(?新たに考案した作品?)…
などと言っており、またその後のローマ滞在中には『聖エウスタキオ』の音楽劇を書いていたり(1626)、マッツォッキの『アドーネの鎖Catena d'Adone』の一部の書き直しを依頼されたとも手紙(1627)の中で言っていたり、また『アルチーナの島L’isola d’Alcina』という劇音楽も書いていた(1626)事もわかっていて、自身も自らを劇音楽の専門家であると認識していたようです。
後期のマドリガーレやソロ音楽集などを聴いても、きっとディンディアの劇音楽は面白かったろうと思うのですが、残っていないのが本当に残念です。
少し年代が戻りますが、1622年には、ディンディアの不在時に別の作曲家がその仕事を横取りする、といったような事件があったらしく、嫌気が差したのか翌年23年5月にトリノを去ります。約12年間、ディンディアのキャリアの中では一番長い奉公先で、主だった作品の相当数がこの時に書かれています。先に列挙した作品の他、1621年にMusiche4巻、トリノを去って間もない1623年の6月8日に5巻が出版されています。
どの曲も素晴らしいですが、特にこの4,5巻とその前の3巻は、面白い曲が沢山。ディンディア自身が詩を書いたものもあり、興味が尽きません。マドリガーレがメインの公演ではありますが、この中からは確実に1、2曲は演奏すると思います。
その後10月にはモデナのアルフォンソ3世・デステの宮廷に居り、その後24年3月末までの滞在中、エステ家の為に作曲しています。それらはマドリガーレ集第8巻として24年にローマで出版、アルフォンソの妻イザベッラ・デステ(ディ・サヴォイア)に献呈されています。ちなみに7巻も同年出版、こちらは枢機卿マウリツィオ・ディ・サヴォイアへ献呈されています。
アルフォンソはディンディアを召し抱えたかったようですが、義兄弟に当たるマウリツィオ枢機卿はトリノに送り返すよう説得しています(が、ディンディア、結局帰っていません)。
この7、8巻は献呈文の日付をみるとどちらも24年8月(7巻が1日、8巻は25日)で、同じローマのロブレッティで印刷されています。
ちなみに、6巻はその存在が現代までに完全に消失してしまっており、恐らく1声部も残っていません。また7巻はアルトパートだけが完全に散逸してしまっていますが、残り4声はイタリアに残っています(ボローニャにC, T, Bの3声、ローマにC, B, Qの3声)。
7巻は通奏低音なしの5声で書かれており、8巻は全て通奏低音入りです。
時間や金銭、様々な余裕があれば、7巻の4声を揃えて、誰かにAltoパートを書いてもらって演奏、というのもできたら良かったのですが、今回の公演では、残念ながら7巻の演奏は見合わせました。
その後はローマのマウリツィオ枢機卿の元へ行き、26年2月まで仕えました。この間には現在失われている作品を含め、多くの宗教曲が書かれたようです。この時に、唯一全曲をディンディアが書いたと完全にわかっている劇音楽『聖エウスタキオ』が書かれています(1625)。台本はトリノ時代に共に作品を書いていた、ルドヴィコ・サン・マルティーノ・ダッリェです。
2月にローマを離れてからはモデナに戻りましたが、イザベッラが8月に急に亡くなった為、この滞在は長くありませんでした。前述した『アルチーナの島L’isola d’Alcina』は、このイザベッラの突然の死により上演が中止されたようです。また葬送の為の曲も書いたようです。
その後12月にはローマに行きましたが、その後は明確にはわかっていません。28年の手紙によると、恐らくモデナに戻り、そこで作曲に精を出していたようです。これらは恐らくミュンヘンのマクシミリアン1世に送られるものですが、消失しています。ミュンヘンには28年4月28日付の400fiorinの支払記録が残されています。
晩年がよくわからない、という音楽家はこの時代少なからずいますが、ディンディアもまた、亡くなった場所はわかっていません。ただ、1629年4月19日の残された手紙によると、モデナで既に死期が近かったようです。
生まれた年が正確にわかっていないとしても、1580年頃から1629年なので、50歳にならずに亡くなった事になります。作曲家の紹介文を書いているといつも思うのですが、やはりディンディアも、もっと長生きしてくれたなら、もっと素晴らしい作品が残されただろうになぁ、と思わずにはいられません。
簡単に書くつもりがなんだかゴテゴテして来てしまい、結果ある程度の分量になってしまいました。とりあえずここで、ディンディアさんの紹介を終わりにします。
今後は曲目や詩、それに付随したものを気が向いた時に書いていこうと思います。
↓皆さん、ぜひ第5回公演にてディンディアの音楽を浴びまくってください!!
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